聖書の言葉から

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。もしキリストにかけているわたしたちの望みがこの世の生活に限られるのであれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(コリントの信徒への手紙1第15章16~19節)

 新緑の季節ですね。北国に住む私たちでなくても、一般に春は最も心躍る季節といえるでしょう。この時期に、キリスト教では「復活祭」という一年で最も重要な行事を祝います。「イースター」と言った方が、馴染みがあるかもしれません。復活祭は、文字通り、イエス・キリストの復活を祝う日です。では、復活祭はどうして重要な祝いなのでしょうか。
 キリスト教の世界観では、人祖アダムが神に対して犯した罪により、人間は死すべき者となったが(堕罪)、イエスの受難と十字架上の死によって人間の罪は許され(贖罪)、イエスの復活により人間は死後も生きる道が示された(救済)、と理解されています。復活は、本来救いがたい存在である人間が救われるという、神からの最大の「賜物」であるわけです。この流れを「救済史」とも呼びます。復活はいわば、死の淵に命の光が照らされる救済史のクライマックスです。したがって、復活抜きにキリスト教を語ることは出来ません。
 パウロが上の引用のように語ったのは、古代教会のなかに「イエスのことは尊敬しているが、復活というのは作り話だ」と考える人々が実際にいたからでしょう。確かに、復活という事態は、人間の理解を超えています。しかし、だからこそ最大の神秘なのだ、とも言えるでしょう。パウロが「キリストにかけている」と語っているように、復活信仰とは、人知を超えた神秘に自分の人生をかけるようなものだと思います。ただしこの「かけ」は巷の博打とは別種のものでしょう。人が競馬やパチンコをする動機には、多かれ少なかれ「お金はいいものだ、お金がほしい」という気持ちが働いています。一方、パウロの言う「かけ」の前提には、「命はいいものだ、命がほしい」という人間のより根元的な共通理解があるのではないでしょうか。このように考えると、命が躍動する春の到来に心躍る感覚は、復活信仰と無縁ではないような気がします。
(木鎌耕一郎=八戸大学ビジネス学部助教授(宗教学・キリスト教概論))

学院キャンパスだより:第4号

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聖書の言葉から

「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダヤは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、「主は我らの救い」と呼ばれるであろう。」(エレミヤ書33章14-16節)

 新年おめでとうございます。まだまだ寒いこの時期、毎年思うのですが、「新春」とか「迎春」という言葉は、「西暦」よりも「旧暦」の時期の方がしっくりきますね。
 ご存知のように「西暦」の考え方は、多少誤差はありますが、キリスト誕生の年を基点に紀元前と紀元後に分けられていますので、キリスト教と深い関わりがあります。しかし、キリスト教の祭日や行事は、さらに独自な「典礼暦」という暦に基づいています。典礼暦の新年は、クリスマスから3週間前の週の日曜日になります。だいたい11月末か12月はじめです。この日は新年の始まりであるとともに、この日から、降誕祭を4週間に渡って待つ「待降節」が始まります。いわばクリスマス準備期間の、最初の日です。「待つ」ためには、それに先立ち「希望」がなければなりません。キリスト教の新年は、「救い」の訪れを「希望」し、「待つ」祈りで始まるわけです。上の引用は、待降節最初のミサで読む箇所です。かつてイスラエルが分裂し、滅ぼされ、神殿も壊され、望みが失われた時期に、エレミヤという預言者が救い主の到来を告げた場面です。希望を得ることで、ユダヤの民は受難に耐え、その後、再びエルサレムに神殿を建て直しました。新年にあたり、希望を新たにしたいものです。
(木鎌耕一郎=八戸大学ビジネス学部助教授 
(宗教学・キリスト教概論))

学院キャンパスだより第3号

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聖書の言葉から

マリアの賛歌
わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人々もわたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
(ルカによる福音書1章47~49節)

 暑かった夏もようやく過ぎ去りつつあります。お盆の時期、8月15日にキリスト教では、「聖母被昇天の祝日」が祝われます。「聖母」とはイエスの母マリア様のことです。「被昇天」とは、肉体も魂も共に天国にあげられたことを意味します。キリスト教では、人間は「原罪」の結果として天国から追放された状態にあるとされています。そのため人間は欠陥のある肉体と魂をもって生き、死後天国に行く者は、新たな身体を与えられます。ただし、マリア様は特別であり、欠陥をもたない「無原罪の聖マリア」と呼ばれます。そこでマリア様は死に際して、新たな身体を与えられる必要もなく、肉体も魂もそのまま天国に行ったと考えられたわけです。この理屈は、聖書に直接由来するというよりは、古代教会の時代からの伝承と神学に基づいています。このことは、人々のマリア様に対する絶大な信仰を物語っていると言ってよいでしょう。マリア様は母であり妻でした。同じように苦楽を味わった人間ですから親近感があり、そのため人々は、神への祈りを取り次いでもらうようマリア様にお祈りするわけです。
(木鎌耕一郎=八戸大学ビジネス学部助教授 
(宗教学・キリスト教概論))

(学院キャンパスだより第2号より)

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聖書の言葉から

いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の子羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(使徒パウロのコリントの教会への手紙5章7節~8節)

 ようやく春ですね。春といえば、キリスト教では復活祭を祝います。復活祭は、クリスマスと並ぶ大切な祝日です。上の引用は、復活祭のミサで毎年読まれる聖書の箇所です。パン種、つまり酵母菌は、パンを膨らませるために欠かせませんが、腐敗させる菌でもあります。聖書でパン種のたとえは、よい意味でも悪い意味でも用いられます。上の箇所は、悪い方の意味です。過越祭はユダヤの民が「出エジプト」を記念した祭で、子羊と種なしパンを食べる日です。キリストは、過越祭の子羊、すなわち人間の罪のために神に捧げられたいけにえとして理解されています。種なしパンを食べることは、悪しき種、すなわち自分の中の古い要素を取り除き、新しく生きることを意味します。復活祭のたびに、心を新たにするためです。
『きかま・こういちろう=八戸大学ビジネス学部助教授(宗教学・キリスト教概論)』

(学院キャンパスだより創刊号より)

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